◆本部町町制施行60周年記念写真展

本部町制施行60周年記念写真展
あの日 あの時 あの頃 (本部のオバー)

本部大橋をのぞむ風景。沖縄八景の一つに選ばれたのは、昭和初期の頃である。
=教 育=
一人八一(明治十五)年、村や島に学校が造られるようになり、一般の子ども達も学校に通うようになったが、本部間切では渡久地に本部小学校一校しかなかったので、遠く伊豆味や謝花、瀬底などからも通っていた。明治の終わり頃までには、本部尋常高等小学校のほかに、謝花、瀬底、伊豆味、崎本 部など町内に五つの小学校ができた。一九四一(昭和十六)年になると、学校の名前も尋常高等小学校から国民学校と変わった。戦後は、郷土の再建と復興への期待を込め、父兄、地域住民が一丸となって学校づくりに取り組んだ。

明治時代の本部小学校の生徒と教師

戦前の本部尋常高等小学校(現長役場)1932(昭和7)年頃

戦前の謝花国民学校(現謝花町住宅)1941(昭和16)年頃

瀬底尋常高等小学校1937(昭和12)年頃

終戦まもない頃の本部小学校の学芸会(現本部中グランド)1950(昭和25)年頃

戦前の伊豆味国民学校1941(昭和16)年頃

戦後間もない頃の伊豆味校1951(昭和26)年頃

浜元小中等学校1951(昭和26)年頃

1951(昭和26)年頃の伊野波小中学校(現ドリーム保育園、町営住宅)

開校当時の本部高校 まだ造成中である1967(昭和42)年頃

本部小学校建堅分校
=風 景=
本部町は古くから港を中心に発展して来た。大正から昭和の初期頃は渡久地十字路あたりから谷茶あたりにかけては、とても静かな浜が続き、山の麓の平地にわずかばかりの茅葺き家が建っていた。 渡久地港が港として整えられたのは一九三四(昭和九)年のことで、それ以前はやんぼる船の出入りが多く、自然の港として利用された。戦後も伊平屋、伊是名、伊江島への航路として利用された。
昭和初期の渡久地港

大正時代の渡久地港(現本部中学校、渡久地保育所ー帯)

戦前の沖縄八景に選ばれた渡久地の町並みと渡久地港 昭和初期

三月毛(渡久地神社の上)から見た渡久地港1947(昭和22)年頃

大浜地先の埋め立て工事1970(昭和45)年頃

終戦直後のPT(ポートターミナル)と呼ばれた谷茶と渡久地港1947(昭和22)年

採取された土砂は本部中学校のグランドの埋め立てに使われた
渡久地港の浚渫1960(昭和35)年

現国道449号線(浜崎漁港入口付近)1953(昭和28)年頃

現県道114号線沿いの垣内集落1960(昭和35)年頃

崎本部の風景1963(昭和38)年頃

開幕前の海洋博会場
=戦 時=
一九四一(昭和十六)年一二月八日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した日本は、米英に宣戦を布告して太平洋戦争がはじまった。 当初日本軍の破竹の進撃に国民は歓喜したが、日本の十数倍の物量を有する米英に圧倒され戦況は悪化、政府は国家総動員体制を強化したが、次第に国民の生活を圧迫 していった。 そして、一九四五(昭和二十)年四月ついに米軍は沖縄本島に上陸、住民を巻き込んだ 地上戦が三ケ月にわたって展開された。
伊豆味における村葬1938(昭和13)年頃

本部町役場(現安田自転車店一帯)と三役1940(昭和15)年頃

本部町軍人遺家族副業講習会1941(昭和16)年
=慰問袋=
戦地の兵士を慰問するために、家族や恋人らが日用品や娯楽品を入れて送った布袋。中には武運長久のお守り、薬品、タバコ、セッケン、缶詰などの日用品や雑誌、手紙(慰問状)などが入れられた。

本部町銃後報公会慰問袋包装1941(昭和16)年

出征記念

監視哨を慰問した浜元の青年団1942(昭和17)年

本部女子警防団 中央は嘉数町長と隅崎渡久地警察署長1941(昭和16)年頃
=監視哨=
太平洋戦争の時、見晴しのよい所に敵の艦船や飛行機の機種や方角、数等を監視するために建てられた見張り台。本部(もとぶ)には谷茶の丘の上に昭和16年に造られた。

谷茶にあった監視哨(現特別老人ホーム本部園下)

10・10空襲 1944(昭和19)年10月10日朝、米軍機の攻撃を受け、炎上する渡久地・瀬底国民学校

米軍の砲撃を受ける真部山

清未隊の慰霊の塔と壕から掘り出された清未隊の使用した大砲(合成)
=産 業=
本部(もとぶ)は古くから半農半漁の町で、とりわけ鰹業は本部の経済を支えてきた。鰹業は明治の頃から始まり、大正十三、四年には大小四十隻近くの鰹船が操業していた。 鰹の時期になると、港は鰹を満載した船が出入りし、鰹節工場は鰹節の製造で活気に溢れていたが、時代とともに衰退の一途を辿り、今では第十一得用丸ただ一隻が操業しているだけである。
かつお節製造風景(骨抜き)1994(平成6)年

かつお節製造(日干し)1957(昭和32)年頃

かつお節製造(整形)1957(昭和32)年頃

かつお節工場と本部漁業組合1955(昭和30)年頃

かつおの一本釣り

琉球果樹園株式会社(パイン工場)

瀬底の製糖工場1955(昭和30)年代
=団 体=

大衆浴場落成記念伊豆味区全青年団1941(昭和16)年

渡久地区消防団員と消防車とサイレン塔(現宮城呉服店)1956(昭和31)年

谷茶区消防団と消火ポンプ格納庫(左の茅葺き)

崎本部区の消防団1960(昭和35)年頃

東区消防団 当時は、各字にこのようなサイレン塔があり、手押しポンプが配備されていた。

浜元消防団

東区の一般陸上競技会出動者記念1950(昭和25)年頃

渡久地青年団の優勝写真
=行 事=

本部町役場謝花支所の開所式
握手する本部町長並里安博氏と旧上本部村長仲村松秀氏1971(昭和46)年

海洋博の開会式でテープカットをする長並里安博町長と本部町の最長老の古堅マヅルさん
(当時102歳)

瀬底島への海底送電・送水完成祝賀会1981(昭和56)年

本部のかつお漁を考えるシンポジウム1994(平成6)年
=祝 祭=

本部町役場落成祝賀会場(現在地)1948(昭和23)年

祝賀会風景

具志堅区のシヌグ1941(昭和16)年頃

88才(トーカチ)祝い1955(昭和30)年頃

東区青年会のエイサー1950(昭和25)年頃

本部小学校第1回同窓会余興の渡久地区のエイサー1952(昭和27)年

第1回本部町商工際パレード 本部半島を1週

渡久地港の貿易港指定を祝って盛大な祝賀会が催された1955(昭和30)年

合併祝賀パレード

本部町・上本部村の合併祝賀闘牛大会1971(昭和46)年

渡久地区の綱引き・牛若丸と弁慶1978(昭和53)年

瀬底大橋の開通・渡り初め1985(昭和60)年
=生 活=
昭和前期の沖縄はそてつ地獄といわれるほど人々の生活は苦しかった。そのような状況の中、日本は次第に戦争への道へと進んでいき、ますます人々の生活を圧迫していった。沖縄戦ですべてを失った人々は、まさにゼロからの出発であった。荒れ果てた郷土を一日も早く復興し、豊かな生活を求めて日々精進してきたのである。
終戦直後の本部のマチグァー1947(昭和22)年頃 ジュラルミン製の鍋が所狭しと並ぶ

本部のマチグァー(市場)1980(昭和55)年頃 朝早くから威勢のいいオバさん達の声が響く

崎本部の集落1965(昭和40)年頃

昭和初期の豪農の瓦葺き(伊野波区のグラヤー)1953(昭和10)年代

戦前の炊事場(カマド) (坂本万七写真集より)

ウヮーフル(豚舎と便所)

戦後の農家の炊事場

大正~昭和初期の渡久地港に浮かぶサバニと山原船

瀬底区民の足として活躍した第5瀬底丸1984 (昭和59)年頃

ターグを担ぐ女性1960(昭和35)年代 昔は井戸から水を汲むのは女性や子供たちの仕事であった。

天水タンクとミジガーミ1960年代
水道が普及する以前は、天水(雨水)をトイでタンクに溜めて日常の生活に用いた。

水納島渡船(水納丸)1965(昭和40)年頃


